ちよ文庫

詩、掌の小説

「天使のメランコリック」


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 神様は言った。

 

 「天使の身でありながら人を知るためみずから人間となり、地上で生きたこと。真に立派であった。その苦労をねぎらって、おまえに権利をひとつやろう。」

 

 次に、神様は人ひとり映るくらいの鏡をポンとお出しになった。

 

 「この鏡はおまえが命を絶つ前から数えてひと月分の記憶を映すことができる。おまえはそれを見てよく考え、次の生を選ぶんだ。いいね?」

 

 「はい。」

 

 

 

 『綺麗な髪の毛だから、抜かないでほしいな。』『あなたには幸せになって欲しい。』『あなたを助けたい。』

 

 映し出された人。声。言葉。

 そのすべてにこころが反応した。

 

 『なんで優しくするの?』

 『優しくしたいと思ったからかな。助けを求めてるんじゃないかと思って。』

 

 つぎつぎに映し出される。

 

 『ユリは可愛いね。もし目の前にいたら撫でてあげたい。』

 『じゃあ、心ってどう撫でるの?』

『そうだなあ..............撫でられないから代わりに抱きしめてあげる。』

 

 忘れていた記憶。たしかに交わした会話。それと流れ込んでくるあたたかな感情。

 そうだ。わたしはこの人のことをとても信じていた。

 

 『わたし、たくさん傷ついてきて人のことを信じられなかったの。まだすごく怖いけどあなたのこと信じてみるね。』

『ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。』

 

 ひだまりみたいな暖かさと光。

 洗剤みたいな清潔な声とあまい言葉。

 けれど。ふつふつと湧いてくる鉛のような予感はなんだろう。

 

 『あなたは私によく「可愛い」って言うけど、それは他の人にもよく言うの?』

 『ううん。言ってないよ。』

 『良かった。あなたが私以外の人に言ってたとしたら、なんだか嫌なの。』

 『そっか。でもいつかは選ばないといけないんだよなあ。』

 

 選ぶってなに?

なにからなにを選ぶの?

 

 『あのね、私あなたのこと好きになったかもしれないの。』

 『..............ありがとう。でも、ごめんね。』

 

 言いしれない不安を感じた。

 速くなる鼓動。込み上げてくる吐き気。

 それでも容赦なく鏡は記憶を映し続ける。

 

 『実は数ヶ月くらいからユリと同じくらい気になってる人がいてね。その人とも最近お話してるんだけど。ユリとその人を比べたときに、その人の方が好きかなって。』

 

 目の前に映る男の顔は、夢でも幻でもない。私が見た現実だ。

 

 『3日後に会いに行って、その人に告白しようと思ってるんだ。どうなるかはわからないけど、もし付き合えたらユリとは気軽に話せなくなる。寂しいけどごめんね。』


 人間の世界での暮らしは長くきびしかった。

 なにしろ、天使のこころは人間の世界で生きていくにはあまりに脆すぎた。

 日々こころがすり減っていく。ついには人を信じられなくなった私に声をかけたのが彼だったのだ。

 

 『無事にうまくいったよ。緊張したけど、ほんとに嬉しかった。これからユリと気軽に話せなくはなるけど、ユリの味方だから。』

 『..............おめでとう。彼女さんと幸せにね。』

 

 『しにたい。』

 

 ようやく鏡の映像はとまり、ボロ切れのような女の姿を映すだけだった。

 

 

 

 「神様。教えていただきたいことがあるのです。」

 「よろしい。好きに申しなさい。」

 

 神様の表情はたえず穏やかで、静かな微笑みをたたえている。

 

 「なぜ彼は私から離れなければいけない近い未来を知っていて、私にそれを話さなかったのですか。」

 「おそらくだがね。色恋に熱をだす己と人を助ける善の己、どちらも手に入れたかったのではないかな。」

 「けれども私は人を信じるための恐怖をのみこんで彼を頼ることにしたのです。それに彼は何度もあまい言葉をかけてきました。それなのに他の女性との恋のために私から離れていくとは、あまりにもな仕打ちではありませんか。」

 

 困ったような憐れむような顔をしつつも神様はお答えになった。

 

 「おまえが命を絶った理由は男に受け入れられなかったから故のことかな?」

 「いいえ。ただそれだけなら良かったのです。」

 「ならば何故。」

 

 私にあまい言葉を囁いたこと。

 それと同時にほかの女性を想っていたこと。

 自身の行動次第でわたしから離れることをわかっていて何も言わなかったこと。

 そのうえで私に「幸せになってほしい」と嘯いたこと。

 

 「突き詰めれば。私に生きる希望をあたえ、なおかつ奪ったことです。」

 

 信頼が花を手折るようにポキリという音がした。

 同じときに尊厳がグシャリとつぶされた。あの瞬間をこの身が覚えている。

 

 「よくわかった。では問おう。おまえは天使のこころが塵となるまでよく生きた。次の生を望むのなら快く叶えよう。」

 

 私は気づけば涙を流していた。

 

 「災害。わたしは災害となって人間たちがひとり残らずいなくなるまで大地に降り注ぎます。」

 

 神様はやはり困ったような憐れむような顔をしていましたが、天使に宿る憂鬱をくみ取って望みを叶えてやりました。