「夏が煙る」
夏休みに入る直前、小学校から続けてきたサッカーを辞めた。
学校から帰る途中。曲がり角からやってきた車に轢かれ、脚がダメになった。
周りには「来年は受験だし案外いい機会だったのかもな」なんて言っておいたものの、自分でも意外なほどに喪失感は大きい。
友達が勧めてくれた本を読む時間やクラスの誰かと遊ぶ時間は増えたけれど、どうにも補いきれない。
サッカー部の奴らは気のいい連中で、退部した俺に以前と変わりなく接してくれる。
今日も部内で仲のいいユウキから「部活早めに終わるから帰りに遊ぼうぜ。」と誘われていた。
「どうせなら見学していくか?」とも聞かれたが「気分がイマイチだから」と断った。部内に顔を見せるのはまだ気が引けるから、なるべくは避けたい。
ユウキとの約束の時間までどうしようか考えた末、屋上で涼むことにした。
炎天下にグラウンドでボールを追いかけて走る皆を眺めながらソーダ味のアイスを齧る。
シャクシャクした食感を味わいながら、建物の影でひんやりとしたコンクリートに凭れた。夏は校内でここが1番快適だ。
棒に残っている一欠片を咀嚼して、ちょうどユウキのシュートを目撃した時。屋上への扉がガチャンと開く音がした。
「すげえ。屋上がキレイになってる。」
「創立周年の記念に工事したらしいよ。」
2人分の声とともに足音が通り過ぎる。
1人は知らない男性の声。もう1人の声は今年の春に赴任してきたクラス担任の菅原先生だ。
「こうしてるとさ、たまに2人でサボってた時期が懐かしいな。」
「そうだね。でも、今はもうそんな不良な子いないよ。皆真面目だから。」
「ふーん。まあユーガが先生やってるくらいだからな。」
「どういう意味だよ、それ。」
相手とかなり親しいのか笑いながら会話している。
普段は物静かで大人しい印象の先生からは想像がつかない快活さがほんのり滲んでいた。
サッカー部の練習より先生たちの会話が気になってしまい引きつづき聞き耳を立てる。
「俺、教員辞めるよ。」
瞬時に聞き間違えたのではないかと疑った。
「免許取って4月に着任したばっかだろ。いいのか。」
「うん。」
「そっか。.........何で?」
「なんというか、上手く言えないんだけどさ。皆が俺のことを「先生」って呼んでくれるんだ。それに本当にいい子ばっかりで。」
「それじゃダメなのか?」
「全然ダメじゃないよ。俺がひねくれてるだけ。」
板書は折り目正しい字を書くし教科書を読む時は朗々としていて聞き取りやすい。
授業に遅れたことは無いし点検したノートには必ず赤ペンで短いコメントを返してくれる。
ひねくれてる所なんて見つけようのない、どう考えても俺の知る先生は教師の鑑みたいな人だった。
「ユーガは頑固だから。1度言い出したら聞かないよな。」
「うん。意思は変わらない。」
「...............わかった。なら応援する。」
「ありがと、フウタ。」
「おう。5分くらい美術部の顧問に挨拶してくるから、ちょっと待ってろ。」
フウタと呼ばれた男が屋上から出ていき、入れ代わりで俺は先生の前に立った。
「先生、辞めるって本気ですか?」
「........................うん。」
間髪を入れず一思いに口走る。
「俺が現国のテストで1番になったら辞めないでください。」
自ら発した突拍子もない言葉に俺自身が驚いていた。
アイスで得た清涼感はすでに消え失せていた。とくんとくんと脈打つ鼓動が聞こえてきそうだ。
意外にも先生は驚くでもなく涼しい表情で金網に凭れている。
考えるような仕草を見せて、先生はスラックスのポケットから煙草とライターを掴んだ。
慣れたような手つきで1本取り出して口に咥える。
「これ吸えるなら乗ってもいいよ。」
自分の咥えた煙草に火をつけた後、こちらに1本差し出してきた。
保健の教科書で見たグロテスクな肺の写真を思い出す。
別に怖いわけじゃない。それなのに手は先生の方へと伸びない。
先生は俺を一瞥して別人のように薄く笑った。
「冗談。」
夏休みが終わり、明けて9月。
始業式で菅原先生が一身上の都合で退職したと全校生徒に伝えられた。
屋上で話したあの日を最後に先生は煙のように消えてしまった。
あの時、俺が吸えてたら先生は先生でいてくれただろうか。
父の部屋から1つだけ取ってきた外国の派手なパッケージの煙草。
俺は未だに火をつけることすら出来ない。
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