「春を摘む」

 高校2年の夏、俺の背中に虎が生まれてからそれまでよりずっと強くなれた。

 バイトを掛け持ちして溜めた金と奨学金でなんとか家を出て大学に進み、教員免許を取得して今や母校の先生。

 なんて、昔の何も出来なかった頃の自分が聞いたら嘘臭さに笑うかもしれない。

 実際、フウタに教員になることを伝えた時は「嘘つくならもっとマシなこと言え」って鼻で笑われたくらいだ。

 母校の高校で教鞭を執りはじめて3ヶ月。

 「先生」として立つ夏の教室は人が密集した熱気で茹だっていた。

 数年前に制服を着ていた自分はこの煩わしさと3年間付き合っていただろうに、今や頭の片隅にさえ残っていない。

 けれどそれもそうだ。俺はもうとっくに大人になってしまった。

 「先生、前回の課題で分からないところがあるんで教えてもらえますか？」

 授業後、テキストと文具を片付けて教室を出かかったタイミングで生徒から声を掛けられた。

 「いいよ。どこが分からなかった？」

 「羅生門の課題で、問3と問4が............。」

  表紙に「現代文Ⅰ」と大きく書かれたテキストを受け取って目次を開く。ぺらぺらとページを捲りながら該当の箇所を探した。

 赤いマーカーで引かれた線やカラフルに主張する付箋のおかげで問題の場所はすぐに見つかる。

 「ここでいいんだよね。羅生門の背景には飢饉や災害があって.........。」

 現代文は説明しても理解してもらえないことが多い。

 なるべく抽象的な表現を避け、事象を中心にまとめて話すことを心掛ける。

 尋ねてきた男子生徒は難しそうな顔をした後、何度か質問を重ねて無事に理解出来たようだった。

 「.........ありがとうございました。その、説明、分かりやすかったです。」

 「そっか、理解できたみたいでよかった。また分からないことがあったら遠慮なく言ってね。」

 なるべく笑顔になるよう口角を上げる。

 彼は子犬のような無垢な顔で 「よろしくお願いします。」と言って席に戻っていった。

 俺が言うまでもなく近いうちに彼はまた何かしら聞きに来るだろう。

 サクラダ イオリ。

 サッカー部のエースで誰とでも仲良くなれる人懐っこいタイプの男子生徒。

 現在は怪我で退部しているにも関わらず人望は厚いようで彼の周りにはいつも人がいる。

 俺が同級生だとすれば絶対に話さなかったであろう人種だった。

 最近、彼はなぜか俺によく構う。

 春まで学生だった若い教師への親しみにしては過度な気もするし、かと言って特にこれといった交流をした記憶もない。

 桜田のあからさまな好意は謎だったが解けるのは案外早かった。

 授業をすべて消化した放課後。

 日々上がっていく気温にうんざりしつつ教室の戸締まりを確認していた時。やはり彼は俺に「現文を教えてほしい」と解説を聞きに来た。

 「桜田くんは俺によく話しかけてくれるよね。」

 ふいに口をついて発した疑問。

 彼は俺の顔を見て照れたようにはにかんで答えた。

 「俺、国語苦手だったんですけど......サッカー辞めてから本読むようになって。特に芥川とか。」

 「ああ、そういえばよく文庫本持ってるよね。」

 「はい。先生、覚えていないかもしれないけど、廊下ですれ違った時に声掛けてくれたじゃないですか。」

 言われて思い返してみれば確かに声を掛けた記憶は朧げにあった。

 けれど本のタイトルに咄嗟に反応してしまっただけだったように思う。交わした言葉もたった2、3言だったはずだ。

 「先生が芥川のこと話してる時、本が好きなんだって伝わって、なんか嬉しかったんです。俺も読んでて好きだって思ったから。」

 特に照れくさそうにする訳でもなくそう言った桜田の目には、隠そうともしない俺への好意と尊敬が見て取れた。

 混じりっけのない純朴な視線と親しみを込めて呼ぶ「先生」の声。

 甘ったるいお菓子を口に入れられているようなこの生温い感覚がずっと嫌いだった。

 心の奥底からふつふつと湧き上がる汚い感情を気取ることなく彼はつづける。

 「俺も周りも落ち着きないから、先生みたいな凛とした振る舞いの人、憧れなんです。」

 「..................憧れにするほど、俺はそんなに格好いい人間じゃないよ。」

 「いや、そんなことないですよ。なんていうか、先生になったばっかりでも堂々と授業してるし。俺からするとすげえ格好いいです。」

 「そうかな。俺は桜田くんみたいに周りに人が集まってくる人の方がずっとすごいと思うよ。」

 「いや、別に、あいつらは俺のことからかってくるだけで。たぶん面白がって絡んでくるだけですよ。」

 褒められたことが嬉しかったようで、彼の顔はわかりやすく綻んでいる。

 自分の代よりも今の生徒たちは皆素直でいい子ばかりだ。 特に彼らの輪にいる目の前の少年は周囲から愛されて育ったのだと話していてわかる。

 「桜田くんはさ、「羅生門」の下人はその後どうなったと思う？」

 「え............描写的にそのまま盗っ人になるんじゃないですか？」

 「............仮にそうだとして下人は悪人だと思う？」

 桜田くんは「なんかテストみたいですね」と可笑しそうにはにかむ。

 「俺は善悪とか難しいことよくわかんないんですけど、生きる為とはいえ罪を犯す訳だから悪人じゃないかなって思います。」

 「そっか、そうだよね。」

 「俺、間違ってました？」

 「ううん、桜田くんが正しいよ。」

 桜田の日に焼けた健康的な肌と煌めかしい黒の瞳は太陽そのものみたいで、目が潰れそうなくらいに眩しかった。

 きっと彼には痛みと引き換えに強さを手に入れようと縋った人間の気持ちは理解できないだろう。

 俺は取り留めのない話をしながらなるべく彼の顔を見ないように努めた。

  結局、俺は春に始めたばかりの教員生活を夏が終わる前に辞めた。

 たった3ヶ月の間でも誰かの先生であることに耐えられなかった。それだけの理由ではあったけど、フウタは特に何も言わず肯定してくれた。

 窓際で本を読んでやり過ごしていたあの頃。

 プールを一緒に見学したフウタ以外のクラスメイトに関心を示さなかった自分は視界が狭まっていたのだと思う。

 世の中には耐えがたい苦しみに喘ぐ人間がいれば、人に愛されて平和に生きる人間がいるなんて。考えてみれば当たり前の話だった。

 最後に彼と話した時。

 大人気のない意趣返しで困惑させたことを申し訳ないとは微塵も思わない。

 ただ煙草1本吸えない純朴な彼とは例えどこかですれ違ったとしても言葉を交わすことは無いだろう、とぼんやり考えた。