「生命を壊す」
ただそれなりでいたいな、と思いながら「それなり」ってどんな人間なのかはよくわからない。
人並みに友達に囲われながら生活して、好きな人と恋愛して、いつかは一緒に暮らして子どもをつくり平穏な家庭を持つ。
世間で言うところの「普通の人間」は俺が思うに高水準だ。
教室の窓から見える空が青いことに安心する。
本を読む時に指先から伝わる紙の感触が無機質であることに落ち着く。
その日一日の自分が平静でいられたことに安堵する。
常日頃からそれこそを幸せだと信じて疑わなかった。
あと1時間でようやく帰宅できる。というところで、今日ラストの授業は進路調査だった。
先生が「進路調査票」と書かれたプリントを配り、班毎にファイルを1つずつ置いていく。
手元に置かれたファイルの中を捲っていくと、大学の名前が五十音順に並んでいた。
「3年になる前にそろそろ進学するか就職するかくらいは考えとけよ。調査票の提出は来週の水曜までだからな。」
先生が言い終えてから、急に教室がガヤつき始める。
隣近所の席で話すことは咎められないらしく、それぞれ志望の大学名や専門学校名を口にする声がちらほら聞こえてくる。
「俺大学行ったら一人暮らししたいし、どうせだったら県外行きてえなー。」
「ほんとそれ。俺は働くなら建築関係行きたいからそっち方面で探すわ。」
「えー。もうやりたいこと決まってんのか、いいな。悪い、菅原。俺らも見たいから大学の資料貸して。」
「ああ、はい。」
言われてサラッと目を通しただけのファイルを閉じ、手渡した。
「さんきゅ。」
ファイルを受け取ると、また2人の会話へ戻っていった。
聞こえてくる内容はやはり進路のことで、面倒臭そうな口調ではいながらも互いに楽しそうに話していた。
「一人暮らしするなら泊まらせてくれな。」「おまえ部屋汚くしそうだから嫌だわ。」なんて軽口を叩きあっている。
俺は配られたばかりの進路調査票を半分に折りたたんで、クリアファイルにしまい込んだ。
そうして窓の外のぼんやりとした雲がただようプールサイドみたいな青い空をぼーっと眺める。
早く時間が過ぎてくれればいいのに、と。それだけを頭に浮かべた。
鍵を開ける時はなるべく静かに、音を立てないようにする。
別にそうしないといけない訳ではない。それでも、小さい頃からの癖が抜けずに今でも習慣になっているだけだった。
玄関口でも大きな音を出さないようにして靴を脱ぎ、廊下を歩く。
これも抜けきらない癖のひとつで自分の部屋に行く前に騒がしくしないよう努めている。
リビングに溢れるニュース番組が流れるテレビの音とビールの濃い匂い。
机の上には吸殻と灰で汚れた灰皿と600mlのビール瓶、散らかった菓子の袋がそのままになっていた。
気づかれないうちに襖を開けて自分の部屋に入ろうとした時だった。
「ただいま、はどうした。」
酔っ払った声で話かけられる。
背後から声を掛けられただけでも酒気にのぼせた赤ら顔が目に浮かぶようで嫌悪感に寒気がした。
「父親に挨拶も無しか。愛想のない子どもだな。...............なあ、なんとか言えよ。」
起きた事はいつも通りだった。肩を掴まれ、無理やり振り向かされて腹を拳で殴られる。
鈍い痛みはもう慣れたものでじんじんと熱を持つ感覚に特別なにか思うことはなかった。
まだ気が済まないようで、そのまま床に転がっていると追い打ちはすぐにきた。
とにかく拳を振るえられればそれでいいらしく、父親は顔以外をやたらめったらに殴りつけてきた。力の加減は一切ない。
ようやく収まったところで背中を蹴られ、寝返りをうつ自分を嘲笑うようにして、満足した父親はまたテレビの画面に向かっていった。
自分は通学路でよく見るアスファルトにある蝉の死骸みたいにフローリングの上を転がったままでいる。
ただ、いつもと違ったのは背中を蹴られた時に感じた痛みにちがったものが混ざっていたことだった。
その時、ものは試しでクラスメイトに頼んだ墨で形づくられた虎を思い出した。
自分と同じプール授業の度に見学している、同級生にしてはやけに落ち着いた彼に彫ってもらった刺青。針で墨を入れられた異質な時間が人生で初めて生きている実感を持った時だった。
そしていま。蹴られた虎が俺に向かって吼えている。
生まれて初めてだった。衝動的な感情で身体が強く動いたのは。
気づくと、立ち上がって机に置かれていたビール瓶を右手に持っていた。そして背を向けたままの無防備な男の頭に思いきり振り下ろした。
殴りつけた瞬間、割れた瓶の破片がバラバラに砕け散って、教室から見る青空と同じくらい綺麗だと思った。殴られた父親はあまりのことに何が起こったか理解しがたいようで、ただ木偶のようにその場で固まっていた。
俺は瓶の先端部分でもう一度殴りつけて馬乗りになった。
始めは正気を取り戻したようで「誰が育ててやったと思ってるんだ」「俺の家から出ていけ」とわめいていたが、拳が痛くても構わずに殴りつづけると男はみるみる大人しくなる。
「俺はもうおまえなんか怖くないんだよ。」
殺される、と思ったのかもしれない。
殴られた頭から自分がずっと好き放題に暴力を振るった記憶が漏れ出てしまったのかもしれない。
血を流すこの男はあろうことか謝罪と命乞いとを口にしながら泣き始めた。
涙と血が混じりあって小さな川をつくる。情けない父親の顔が余計に汚く見えてすぐに退いた。
見下ろすと背中を丸めて頭を手で抑え「助けてくれ」とくり返し懇願する姿が放り出された赤ん坊に見える。
熱が冷めてしまったかのように萎えていく憎悪に少しほっとした自分へ、「よくやった」と鷹揚にたたずむ虎がひと声吼えた。
夏はすぐに去っていく。
今期最後のプール授業、やはり見学しているフウタと「プールの水が全部オレンジジュースならいいのに」、なんて他愛のない話で暑さを誤魔化した。
「虎は元気か?」
「元気だよ。なんなら俺より調子が良さそうなくらい。」
「それはよかった。............痛くなかったか?」
「ううん。しばらくひりついてたけど、今はそうでもないよ。」と答えるとフウタは心配そうに、けれど優しくアフターケアの説明を前よりも詳細にしてくれた。
それと同時に心配と優しさが刺青のこと以外にも向けられていると察した。
「俺、父親の頭殴ったよ。ビール瓶で思いっきり。」
「............それマジで言ってる?」
「本当。殴られたから殴り返した。」
刺青を彫ったあの日、フウタは青痣だらけの身体に触れることなく淡々と針を入れていった。
本人にとっては何でもなかったかもしれない。それでもそのほんの少しのいたわりがどれだけ嬉しかったか、言葉を尽くしてもきっと全部は伝えきれないほどだ。
だからかもしれない、せめて自分のことを聞いてほしくなった。
「小さい頃からあいつに殴られてたんだけど、初めてやり返したんだ。ビックリするくらい気持ちよかった。」
引かれるくらいの反応を想像していたら、いきなりフウタに吹き出されて、しばらく2人で笑いっぱなしになった。
「刺青もそうだけどさ、ユーガは大人しそうなのにメチャクチャだよな。」
「なんだよ。フウタに言われたくないって。」
「だって本当のことだろ。」
父親を殴りつけて以来、手を出されなくなったこと。卒業後は家を出たいから先生にアルバイトの相談をしたこと。フウタに彫ってもらった虎は、これから先もずっと1番の宝物であること。
塩素臭い乾いたコンクリートに並んで座り、「もう授業は終わったぞ」と体育の先生に声を掛けられるまで、時間を忘れてたくさん話をした。
「あのまま殺してたらどうなったかな」と零した時、「それでもユーガは変わっただろ」と返してくれた、フウタはいつまででも命の恩人だ。
使用写真
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