ちよ文庫

詩、掌の小説

「かえりたい」


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食べたトーストの味がしなかった。

好きだった歌をなんとも思わなくなった。

ともだちの話が聞こえなかった。ただ声だけが流れていた。

母に話しかけられても、顔を見ることができなかった。

ついには、家にいるはずなのに「帰りたい」と思った。

 

脳裏に過ぎるのはビルの屋上、海 、ベランダの柵。

それから延々と続いていく電車の線路の上。

 

白いワンピースを着た小さな女の子が線路の上で踊ってる。

これ以上にない幸せそうな表情で。

身軽そうに、楽しそうに、まるでお菓子を与えられたみたいに甘ったるく笑っている。

 

一歩 あと一歩でいい。

踏み出せばあの少女みたいに幸福だ。

二度とはない僥倖だ。

最上の快楽だ。

 

今迄たくさん歩いてきた。

踏み出すことなんてカンタンだ。

 

ほら 「こっちにおいで」って。

甘美に、やわらかに、暖かく女の子が誘ってる。

「もう大丈夫になれるよ」っておいでおいでしてる。

「つかれたんだよね?いっしょに眠ろう」って笑いかけてくるの。

 

まるでそうであることが決められてたみたいに足が前にでた。

 

「ありがとう、いまそっちにいくね。」