「夜を飛ぶ」
高校で出会ってから7年。
友人のフウタは昔から面倒見がいい。
なんせ数ヶ月で教師を辞めてしまった俺を見放すどころか、「野垂れ死にされても困る」と言って家に置いてくれたくらいだ。
初めは酒の席での話だと思って聞いていたから、トントン拍子で居候が決定していった時は他人事のようだった。
有難い反面申しわけなくて何度か断ったが、次の就職先が見付かっていないこともあって最終的には好意に甘えてしまった。
今ではスペアキーを持ち、帰ればフウタがいるか自分が出迎えるかなのだから不思議なものだ。
「ユーガ、絵の具取ってくれ。」
「ん。」
「さんきゅ。」
木の造りに窓から射す陽の明かり。
床に散らばる無数の絵と筆、バケツ。染みついたアルコールと絵の具の匂い。
フウタは夜に働いて明け方に眠り、昼になるとアトリエに籠ってキャンバスに向かう。
数年前に酒を保管する倉庫を改造して作ったらしく、ワインケースで作られたソファベッドや年代物のウイスキーが並べられた棚は洗練されつつもカジュアルにまとめられている。
洒落すぎないが安っぽくはない、なんともフウタらしい空間だった。
「.........なんかイマイチなんだよな。」
「そう?俺は上手いと思うけど。」
キャンバスは快晴の空を大きな翼で飛ぶ鳥の絵で彩られていた。
水彩絵の具の優しい色づかいと迫力のあるタッチの翼が組み合わさって生命力を感じさせる。触れれば温度を感じるのではないかと思わせるような絵だった。
「どうにも描きたいイメージと違っててさ。もっと力強くて、悠々と、それでいて繊細な絵が理想なんだ。」
「へえ。俺は今描いてる鳥の絵、好きだけどな。どことなくフウタっぽいし。」
「それはどうも。今日も夜は店に出るからテキトーにメシ食べとけよ。」
「わかってるよ。」
初めてアトリエに入った日。フウタの意外な夢を知った。
「いつか絵だけで食べていけるようになりたい」と少年みたいに話す顔は、なぜかプール見学の時に見せてくれた翼の刺青を思い出させた。
これだけ綺麗な絵が書けるんだからいけるんじゃないの、と返せば自嘲気味に笑う物憂げな態度がどこか引っかかったことを覚えている。
「お袋が「種を蒔かなければ花は咲かない」ってさ。子供の頃に言ってたんだ。結果は行動しないと付いてこないもんだ、ってこと。」
「フウタのお母さん、いいこと言うね。含蓄があるというか。」
「まあなかなか当たってると思うよ。だから俺は今種を蒔いてるところなんだ。」
花を咲かせるように絵を描く姿を見ながらソファベッドで船を漕いでいるうちに眠っていたみたいだった。
起き上がってキャンバスの置かれた方を見ると既にフウタはアトリエから出ているようで、スマホにメッセージが入っていた。
『タブレット忘れた。起きたら届けてくれ。』
簡潔に『了解。』とだけ送って立ち上がる。ついでにコンビニに寄って差し入れでも持っていこう。
商店街のつきあたりにある地下1階のジャズバー。フウタはここでバーテンダーとして働いている。
本人は「夜の街ってぬるま湯みたいで心地いいんだ。だから踏ん切り付かなくて居座ってる。」と言っていたが、お客さんには愛想よく動きにも無駄がない。
その上バーカウンターに立つ姿が様になるものだから、見ていて天職なんじゃないかとすら思う。
「お、ユーガくんだ。珍しいな。」
「バンさん、お久しぶりです。フウタいますか?」
「今は買い出し行ってるよ。待ってる間に軽く飲んでいきなよ。」
フウタがいる時に遊びに行くくらいでも、たまに顔を出すと常連さんが挨拶してくれたり1杯奢ってくれたりする。
始めは警戒したが、何度か会話するとほんの少し寂しがり屋なだけの気のいい人たちだとわかった。
バンさんの言葉に甘えさせてもらおうと、ひとつ隣りのカウンター席に腰をおろす。
「そういえばユーガくんは彼女いないの?」
「いませんよ。」
「若くて顔がいいのに勿体ないな。フウタくんも彼女いないみたいだしね。」
種を蒔く時間が惜しいからでしょう、と喉元まで出かかったところでやめる。
「お兄さん、フウタの知り合い?」
「...................そうですけど。」
バンさんと反対側の隣にいる化粧の濃いワンピースを着た女性が話かけてきた。
アルコールに負けじと漂う香水の匂いに顔をしかめてしまわないよう気をかける。
「フウタってモテるのに全然女の子と遊んでなくって。あたしも何回かアピールしたのに振り向いてくれないし、お兄さんアドバイスしてよ。」
「ナオちゃん、フウタくんに気があったんだ。」
どうやら女性と顔見知りらしく、バンさんはタバコを灰皿に置いてからかい交じりに合いの手を入れた。
「だってカッコイイし仕事もできるじゃん。それにこの辺で働いてる人なら夜の仕事に理解有りそうだしさ。」
「まあ、カリスマホステスの息子だしね。そういうのは気にしなさそうだな。」
「だよね。ねえ、お兄さんさ、フウタの好み教えてくれない?」
ほとんど口を付けていないロックグラスをコースターの上に戻す。
店内に流れるピアノに混じってカラン、と涼やかに鳴る氷の音が響いた
「フウタと付き合いたいなら相当見た目がよくないと望み薄じゃないかな。見惚れるくらいに綺麗な人じゃないと厳しいかも。」
胸のうちにある燃え上がる炎と冷えきった氷がさらさらと淀みのない言葉に変わっていく。
「そうだなあ...............例えばだけど。お姉さん、俺に勝てる?」
ナオと呼ばれた女性は何事か言いたそうに顔を歪ませたあと、万札をカウンターに置いて慌ただしく席を立った。
「ナオちゃん怒ってたねえ。しかしユーガくんも見かけによらずいい性格してるよなあ。」
新しいタバコに火を付けながらバンさんは事も無げに言う。
「たまには静かに飲みたかっただけですよ。」
グラスを取り琥珀色のアルコールを煽った。
先程の不愉快を洗い流すように何口か飲み下すと、球体の氷がこともなげに露わになる。
「ははは、いい肴になったよ。ところでおかわりいるかい?」
結局フウタが戻ってくるまでにバンさんと世間話をしながら、微かに酔いが回ってくるまで飲ませてもらった。
タブレットと差し入れを渡すタイミングでしっかりお冷を手渡されたお陰で帰る頃にはすっかりアルコールが抜けていた。
「おまえ客イジめたんだってな。」
「イジメてない。向こうが絡んできたから追い払っただけ。」
「バンさんから聞いたぞ。誰が面食いだって?」
「どのみち付き合う気なかったくせに。」
夜の世界に理解があるから、なんて理由で寄ってこられるなら面食いの方がまだマシだろう。
実際それなりに美意識の高いフウタは本心でなければ他人の容姿を褒めない。お世辞も言わないし変に正直なところがあった。
「ユーガのやり方は極端なんだよ。.........まあ、でもありがと。」
「ん。どういたしまして。」
その時、何気なく横目に見えたフウタがいつもより真剣みを帯びた表情であることに気がついた。
「それと、ユーガのことを信頼してひとつ頼みがある。俺の絵のモデルになってくれないか。」
考えるより先に「いいよ。」と口にする。
ただ生きるために生きている自分と違ってフウタは夢のために生きていける。手を貸すに足る理由はそれだけで充分だった。