「虎を飼う」
ユーガは汗を吸った白いシャツを脱ぎ、そのままベッドでうつ伏せになった。まるで日焼けを知らない真っ白の背中は、今から質の良いキャンバスになる。
「これから長丁場になる。楽にしてていいから。」
「ありがと。よろしく頼む。」
にこりと微笑んで昼寝でも始めるように目を閉じるユーガは、さほど緊張していないようだった。俺は背中にカミソリを当てる。
きっかけは水泳の授業だった。
「葛木は何でいつも見学なの?」
夏になると水泳は必ず見学することに決めている。
どいつもこいつも好奇心は旺盛であらぬ噂を立てたり冷やかしたりする奴はいたが、面と向かって聞いてくる奴は初めてだった。
「なんでだと思う?」
「...............泳げないから、とか?」
「はずれ。俺、翼が生えてるんだ。」
シャツのボタンを外し、袖は通したままで背中側だけはだけるようにしてそれを見せた。
「刺青。」
「そう。左半分と右半分にひとつずつ彫ってもらった。」
恐がられるかと思いきや、まじまじと見詰めたあとただ一言、「綺麗だ。」と言って俺の翼を褒めたのがユーガだった。
教室で誰かと話すでもなく休憩時間に1人で本を読んでいる、いかにもなくらい大人しい地味なタイプ。
そんなうっすらとした印象だったから刺青を見て怖がらなかったばかりか、俺に「自分にも入れてほしい」と頼んできた時は驚きを隠せなかった。
今日までに「本当に入れるのか」と繰り返し聞いたが、ユーガは頑として首を横に振らなかった。
毛を剃り消毒を終えたユーガの背中に下絵をトレースする作業に入る。
予め相談して決めたデザインは背中一面を覆うサイズの虎だった。
相談、と言ってもほとんどユーガの希望通りで、細部は俺が提案する形を取り決定した。
「カラーは入れずに大きな虎を彫って欲しい。」。
要望の通りにカラーのインクは使わずブラック&グレイで仕上げる。
線もシャープで、それでいて雄々しい風格のある虎をイメージした。転写した背中をスマホで撮りユーガに見せると機嫌よくOKされる。
いよいよ、身体に針を入れる。
針を取り出して、アウトラインから彫っていく。
念の為、ユーガが寝ている枕元に数個の飴玉と香水を吹きかけたクッションを置いておいた。多少は痛みを誤魔化せるだろう。
お袋のドレッサーから拝借したバニラフレーバーの香水は、どことなくユーガに似ている気がする。
やはり針を入れ始めると痛むのか、ユーガは枕元にある飴玉を1つ口に入れたようだった。
「痛いならクッション掴んどけ。」
「ん、大丈夫。」
虎を描く間に何度か堪えるような小さな声を聞いたが、ユーガの背中には着々と獣が根付いていた。
シェーディングの前に体力を懸念して休憩を挟ませる。自分から音を上げないとはいえ、相当無理をしているだろう。
一旦手を止めて針を置き、様子を窺ってみる。
視界にとらえたユーガの表情は疲労と苦痛がわずかに滲んでいて、ゾッとする程に扇情的だった。
「フウタも疲れた?」
「いや、俺は大丈夫。あともうちょっとで終わるから耐えろよ。」
「うん。任せた。」
再度、針を持ち命を吹き込むように虎を描いた。
お袋の愛人の1人が気まぐれに教えてくれた刺青の技術。こんな形で使うことになるとは思わなかったが、この虎の創造主が自分であることを誇りに思う。
想像通り、ユーガの白い肌に這うブラックはこれ以上無いほどによく映えた。所々見える青い痣もシェーディングで見事な虎の一部になる。
なぜユーガが虎に拘ったのか。聞いた時に、あいつは「強そうだから」と答えた。
「俺、高校卒業したら自立したいんだ。」
「強そうな絵柄なら、龍も人気だし描けないことはないけど」と提案した時だ。
「龍も強そうだけど、飛んでいっちゃいそうでしょ?険しい場所でも地に足つけて歩ける虎がいいんだ。」
「............モグリだからあんまり期待されても困るけど、なるべく立派なの描いてやるよ。」
あくまでただのクラスメイトで。友人のひとりで。俺に出来ることはこれくらいだけど、それでも。
「............できた。」
餞別代わりに贈った黒い線の集合は、荒々しく大地を踏みしめる1匹の虎としてユーガの背中に誕生した。
ゆっくりと立ち上がり、姿見を合わせ鏡で眺めたユーガは静かに呟いた。
「綺麗だ。」
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